愛猫・福助による解説

  • 我輩は猫である。名前は“福助”という
     
     実は吾輩、訳あって今は天上界の住人ニャのだが、うちの主人が、ホームページとやらを我輩に手伝ってくれというので、しょうがないからちょいと下界に下りてきたニャ。人間は、猫の事をすぐ恩知らずとかいうが、それだけでないのも少しは分かってもらわなくては困る。我輩は礼儀をわきまえているので、まずは自己紹介をしよう。
     我輩は、自分がどこで生まれたかトンと検討がつかぬが、気がついたら兄弟と一緒に真っ暗な中に座っていた。いつのまにか、母親も姿を消してしまった。ガサッと音がしたと思ったら、今度はいきなり明るくなった。眩しくて、目を開けていられないくらいだ。兄弟達はニャ-ニャ-泣き喚いていたが、我輩は寝ていた。腹が減って声も出なかったし、いまさら鳴いても仕方ないと思ったからだ。
     しばらくすると、何やら声がして、スーと持ち上げられた。掌の上で少し落ち着いて相手の顔を見たのが、所謂人間と言うものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
  • 我輩を摘み上げたのは、二人の人間の女だったと後でわかった。場所が、片方の住処のゴミ捨て場だと言う事も今は知っている。なぜなら、たまに拾われた家に遊びに連れて行かれると、「ホラ、またゴミに出されたいの。」等と言われるからである。
     最初の一月ほどは、この家と今住んでいる家を行ったり来たりしていたが、最初の家の旦那は猫の事が大嫌いな人だったので、この家に落ち着くことになった。今の主人は、最初我輩がいることを知らずに家に帰ってきて、大変びっくりしていた。
     我輩はその時たいへん腹が空いていたので、ニャ-ニャ-鳴くと、たいそう手間取ったがミルクを作って飲ませてくれた。我輩はその頃、まだ皿から飲む事もできなかったのである。以来、この主人と十数年一緒に住んでいた。

     主人というが、彼は大変吾輩を甘やかしていると、ボスが言う。ボスは、主人の細君だが、この家の最高権力者なので、我輩としても一目置かざるを得ない。主人の我輩に対する態度は、俗に言う猫かわいがりである。

  •  我輩のページではないので、そろそろ本題に戻ろう。
     主人は能楽師である。「ノウガクシィ~、え~それってなぁにぃ」という御仁も増えてきた昨今の事だ。ちょっと説明しよう。

     一口に能楽師といっても色々である。舞と謡中心のシテ方、舞台でシテの相手を務める役専門のワキ方、笛・小鼓・大鼓・太鼓を演奏する囃方、そして最近は狂言師と呼ばれる事が専らになったが、狂言方、この四種類があるのだ。この4つの役には、各々流儀というものがある。
     シテ方には、観世・宝生・金春・金剛・喜多の五つの流儀がある。しかし、我輩には何が違うのかはわからん。今度、首尾よく散歩に出られたら、お隣の黒先生に聞いておこう。

  •  黒先生は、哲学者めいた風貌の大変立派なからす猫で、その父親の伯父の曾祖父さんの連れ合いの曾祖父さんの叔母の曾祖父さんの…長くなるので省略するが、とにかく先祖の猫が、昔この○○町内に住んでいた、大槻十三先生という能楽師の台所によく世話になっていたのだそうだ。
     今その先生のご子孫は、大阪の方へ行ってしまったという。黒先生によると、大槻十三先生というのは大変立派な方で、黒先生のご先祖が鯵など失敬して、女中にすりこ木でもって追っかけまわされても、目もくれなかったそうだ。
     黒先生は、大変自慢気にこの話をして、「お前の主人というのはどうだ。」と聞くから、この間我輩が主人の大好物であるところの海老を一匹失敬した事によってどんなに家中大騒ぎになったかは黙っておいた。猫も主人の名誉は守るのである。

     どうも脱線しがちだが、続きを話そう。うちの主人は観世流シテ方の能楽師である。名を観世喜正という。観世流とついて観世という名前なので、たいそうな人かと思われる向きもあるが、たいしたことはない。電話しているところを聞いていても、あまり偉いとは思えないし、実際偉くはない。
     もうちっと偉くなって、我輩にも毎日鯵のお頭くらい食わせてくれても良さそうなものである。まぁそれはともかく、我輩とて主人のいわゆる履歴は一向知らないので、何か資料を出せとニャ-ニャ-せっついたら、ボスは何を勘違いしたのか皿にえさをあけてくれた。偉そうに構えてはいるが、これも猫語すら解さないことでは人後に落ちぬ。が、こういう間違いは大歓迎なので、ちょっと食事に行ってくるニャ。

  • 食事も済んだので、主人の履歴を話そう。だがその前にまずは毛づくろい、毛づくろい。
     我輩は身だしなみにはウルサイノデアル。
  •  主人は、1970年9月25日東京は聖母病院で生まれた。主人の家は、観世流分家・観世銕之亟家というところから明治時代に分家したうちで、通称矢来の観世家(観世喜之家)と言われているらしい。家人が電話口でよくそう言っているのを耳にするので、多分そうなのだろう。
     矢来の観世家は、主人で5代目である。それも養子が3代続いた後初めての男子、しかも三人姉妹の後に8年たってできた末っ子ということで、誕生時は大変な喜びようであったという。この辺は捨て猫の我輩とは大分扱いが違う。
     2歳半の時、仕舞『老松』で初舞台を踏み、4歳で初能『合浦』を舞ったとものの本には記されている。
     しかし本人は何も覚えていないと言う。仕方のない人である。だが証拠の写真があるので、ボスが手が空いたらここに載せてもらおう。

     以後、『千歳』・『石橋』・『』・『猩々乱』・『道成寺』・『』・『望月』・『安宅』と、今日までは順調に来ているようだ。主人はいわゆるぼんぼんで、のんびり閑とした人だが、まぁ今までなんとか続けているのだから、上手くいったほうだろう。

     写真の準備が整ったようだ。どうぞ見てくれたまえ。

  • さあ、これがその写真である。写真の裏に昭和51年10月10日、『土蜘蛛』とあるので、6歳の時の写真らしい。

     一緒に写っているのは、主人のじい様、つまり先代・観世喜之である。主人は胡蝶という役を面をつけずにしたのだな。 
     でも、この時の事も全然覚えていないニャ。

  •  右の写真も、上と同じく子方をしているが、これはもう少し大きくなってからだと主人は言う。だからといって覚えているわけではないのがおかしいのだが、多分八歳から九歳くらいまでの間であろう。

    これは『安宅』の子方で、義経役である。このことも、ボスが聞いていたが何やらあやふやな答えばかり返ってきていた。

     小さい頃のことは、こちらが呆れるほど本人よく覚えておらん。ただ稽古が嫌で嫌でしょうがないとは思ったことがないらしい。それは当たり前の事と思っていたそうで、さぼったこともないというから偉いもんだ。だが、舞台に出るのは嫌だったと言う。
     右の写真も、なんだかショボクレテ下ばかり向いている。と言っても、今は舞台に出るのも嫌いではないらしいので、良かった事ニャ。これで我輩の暮らしも安泰と言えよう。

  •  最後にお目にかける写真は、昭和54年1月14日『』で、千歳を舞ったものである。主人は八歳。だが、この頃から背がどんどん伸びて、そろそろ子方ができなくなってきたのだそうだ。というのも、主人の父・観世喜之という人は、とても小柄で家中で一番小さい。
     これに対して主人は現在178cmと、かなり大きいので既に中学生の時は、大人と子供が逆転していたように見えたらしい。そんな訳で彼の子方卒業は早かったそうである。
  •  さて、我輩も今回は大いに頑張ったので、主人に褒めてもらえるだろう。それでは今後とも主人のことをよろしくニャ。
     
    観世喜正へのお便りお待ちいたしております。連絡先をお忘れずに!